毎春恒例の裏磐梯の録音であるが、今回は既に鳥の時期を逸していた。
到着して森を散策したが、案の定鳥の時期は一週間ほど過ぎてしまっていた。
これまで録れていないヘラブナの産卵の水音を求めて桧原湖周辺を巡ったが、これも時期が遅いと判っていた。それでも少しの望みを持って回ったが、録音できる数の魚が跳ねてない。やっぱり時遅し。桧原湖末端のヘラブナの録音敵地に注ぐ川の橋に立って恨めしく思いながら「今年は何も録れないか」「単なる静養か」と、気持ちの切り替えもつかないまま、しばらく湖を眺めていた。
すると、どこからともなくバシャバシャと微かな音が聞こえた。「どの方角だ」と見回しながら耳を澄ませていると、微かな水音が後ろの川の方角から時々聴こえてくる。
「??⋯」 「もしかすると⋯」
わずかな期待をもって偵察に。
入れそうな所を探して編み目のようなっている背丈ほどあるクマザサをかき分けて入って行った。
100メートルほど進んでクマザサの間から川辺を覗いた。すると大きな魚が沢山泳ぎながら時々跳ねていた。
「しめた!」、と喜び勇み、車にとって返して録音機を持って、静かに静かに「逃げるなよ」と、同じ所へ。
静かにとは言っても、クマザサをかき分け、踏みしめると大きな雑音がする。しかし雑音も意に返さず、足下では沢山泳いでいる。信じられない光景だ。子孫を残すために身の危険も介さず泳いでいる。凄い本能だ。
良く見ると、オスの魚がメスの腹をつついては跳ねていた。産卵を促したいるのだ。
左右に100匹ほど泳いでる。早速録音を始めた。
合計3台の録音機を仕掛けた。
心では「やったやった!」と叫びながら録音を済ませた。
その晩は友人の唐橋氏とブナ屋主人木村氏との恒例の晩餐会。早速録音を聴いてみると木村氏「凄い!」「陸海空だ」と。
つまり海は水音、陸にはカジカガエル、空には鳥、ということで、大笑いした。
しかし良く聴いてみると、「ブー」という小さなノイズが絶え間なく入っている。調べてみると3台とも同じノイズが入っていた。「ガックリ!」
何が原因か探ったが判らないまま、比較的ノイズが少なそうな一式を組み合わせて、翌日再び録音をするはめになった。幸い天気も何とか持ちこたえてくれている。
通り雨も含めて幸いこの一台に素晴らしい録音が入っていた。
後で判った事だが、「あれはヘラブナじゃなくてニゴイという魚だ」、と写真と共に連絡が来た。体長30〜40センチもあるが、食べても美味しくない魚だそうだ。
1回の録音旅行で使える録音が1つあれば上出来だ。1トラック、65分のCD《ニゴイの産卵》を完成させた。
魚の跳ねる音はとても大きな音ですが、ヘッドフォンで大音量で聴いていてもいつしか心地良く眠ってしまいます。水の音の効果は凄いものです。
実は持って行った3台の録音機のうち3台とも故障させていた。マイクロフォンを修理に出したり、録音機一台を新調したり、結果的に直らない。
長年頭を悩まされたノイズだが、結局マイクロフォンケーブルの接触不良と判明。これも経験だ!。この録音機の故障の原因が掴めるまで5年もかかってしまった。
この所、録音時のハプニングは無いので、過去の記事を掲載しようと準備をしていました。ところが⋯。
〈再び冬山へ〉
今年の冬山はどうしよう!!
もう一度晴れた日の良い条件での氷筍の録音をしてみたいとも思うし、運動不足、経験がない冬山、体力の極限は目に見えている。
年を越して、そんな事を考えている矢先、去年一緒に行って、滑落を救ってくれた唐橋氏からメールのお誘い。
「参ったな!」
数日考えて再び行く事に決めてしまった。今回こそは多少の運動をしてからと、それ以来、仕事終わりの深夜、菊名の住宅地にある200段の階段を登ることを日課にした。
一ヶ月もすると次第に慣れて来て、時々500段にもチャレンジできるようになってきた。
これなら去年よりは増しだろうと、3月23日に裏磐梯へ向かった。
今回もペンション「ブナ屋」のオーナー木村氏、七田チャイルドアカデミーの福島教室のオーナー唐橋氏。そして唐橋氏の知り合い井上氏と私の合計4人の登山。
荷物は今回も木村氏に持ってもらった。体力がない私は自然に後尾になる。その後ろに唐橋氏がいつも私を見張ってくれる。
唐橋氏がスノーシューよりアイゼンで登った方が良いと12本爪の本格的なアイゼンを貸してくれた。
おかげで一番難所の登り口の度の60度以上もあろうかと思われる急斜面も楽に登れた。
去年滑落した頂上付近の場所に到着してみると、「こんな急斜面だったっけ」と皆一様に驚いた。
滑落している時には割合冷静だったのだが、改めて見てみると、「これじゃ止まらない⋯」。
身を投げ出して助けてくれた唐橋氏の勇気に改めて感服!。
今回は何事もなく洞窟に到着したが⋯。
洞窟内部を覗いてみるとツララもなければ、氷筍も融けてなくなっている。ガッカリだ。
諦めて早々に下山することにした。
転がらないように、転がらないように注意しながら急勾配の斜面を過ぎて、25度くらいの斜面になったとき、先頭を行く木村氏が穴に足を取られてスノーシューが抜けなくなった。
その後ろを辿っていた私が「僕が行くよ」と近づいた時、自分も穴に足を取られた。
ズボッと、股までで入ってしまった。
助けるどころではない。もがいているうちに足はアイゼンで雪に固定されているのに体は斜面下側に回転してしまった。
足の方向と体が逆になってしまったのだ。一瞬膝横に痛みが走った。
何とかしなければと体勢を立て直し、立ち上がる事ができた。
膝は大丈夫かと心配しながら下山して行ったが、幸い痛む事もなく無事、車のある所に到着できた。
ところがペンションに到着して車から降りようとしたときには、もう膝裏に激痛がはしる。ビッコを引くハメになってしまっていた。
翌朝、起きてみると右足が曲げられない痛さ。車さえ運転できれば家にはコウケントウがあるさ、とブレーキを踏むのもままならない足で車に乗って何とか帰宅。
今までの強度の捻挫も2〜3日で復活させたコウケントウも、今回の靱帯は簡単には治らない。
一ヶ月でようやく普通の歩行ができるようになった。
※ ※ ※
4月末、大阪のBL研究所の冨田先生のセミナーに呼ばれ、翌日はオフィス・バランスライフでセミナーをしました。その帰りは深夜の東名を走って富士山麓に夜明けに到着という強行軍だった。
まだ痛い膝を抱えてそのまま録音に行ってしまいました。
1,500メートル地点のブナ林ではまだ少し時期が早いのか、鳥が少ない。
そこで翌朝は別荘地北側に的を絞って出かけた。
近年、別荘地もブナ林も鳥が激減しているのだ。今は若干戻っては来たものの録音できるほどではない。
朝6時半頃、録音を終了し、別荘の中央を貫いている道路を通って、河口湖のホテルに向かっていた。(ここは安倍総理の別荘があることで有名になった)。この別荘地は長さが5〜6キロもあるが、別荘地の中間当たりにS字に曲がった急な登り坂がある。登り切ったあたりで珍しく鳥が沢山鳴いていた。
エンジンをかけたまま、窓から首を出してしばらく耳を傾けていたが、確かめるために車から外にでて聴いてみると、より沢山の鳥がさえずっている。
車のエンジン音がうるさいので窓の外から手を回してエンジンを切った。切ったその瞬間、何と車がバックし始めた。仰天⋯。
下側は急勾配なので、勢いがついたらアウト。
崖下に落ちるか、希に来る車にぶっつくか。早く対処しないと手に負えなくなる。
「これしかない」と、脇の下ほどの高さの運転席の開いている窓から、とっさに飛び込んだ。
幸いサイドブレーキに手が届いた。
一安心して、パーキングにギアを入れるために今度はドアから乗り込んだ直後、車が後ろから猛スピードで⋯。キモを冷やした。どっちにしろ危険だった。
どうしてドアから入らなかったのか。瞬間的な事で覚えていないのだが、多分下りだったのでドアを開けにくいと判断したのかも知れない。
飛び込んだ時、左肋骨を強打して痛かったが、仮眠して起きたらどういう訳か、痛いのは右脇腹になっていた。その夜、寝ようとベッドに入ると呼吸の度に痛い。とうとう一睡もできず、夜明けにはそのまま録音に出てしまった。ヒビでも入ったのかも知れない。
まだ右膝が完治していないのに散々な春にはってしまった。
今もコウケントウのお世話になっている。
何故車がバックし始めたのか、今から考えると止まった時にはニュートラルに戻すのが癖になっているので、鳥に気を取られてサイドブレーキを引き忘れたのかも知れない。
どうやって高い窓の車に飛び込めたのか、これも疑問?(火事場のバカ力)
無事だったから言えますが、またバカな話になってしまった。
ある秋の出来事です。
一年ほど前に発見した広大な草原。ここは、この草原に来るための道が一本のみ、車の音も殆ど入らず、雨、風さえなければほぼ100%の録音ができるという夢のような草原だ。
檜が生い茂る真っ暗で不気味な急勾配の林道を抜けると突然、草原が広がる。
夜中の草むらは昼間とは一変、格別に怖いものがある。
この草むらを登っていくと、中間部にジメジメして真っ暗な杉林がある。これを過ぎるとまた広大な草むらになる。
草むらのあちらこちらに録音機を仕掛けては移動を繰り返していた。
そうしているうちに、いざ車に帰ろうとすると方向が分からなくなる。そこで車の「フォグランプ」を点灯させれば明かりがあるので安心もできる」と、草むらの出入りを繰り返していた。
草原の下側のポイントで最後の録音をして、「さて帰ろう」、と車のキーを回したところ、「カチッ、カカカカ」と、スターターが回らない。
「しまった!」バッテリーを上げてしまったのだ。さて困った。
車を置いて徒歩で町まで帰るしかないのかと途方にくれた…。
「そうか、JAFに入っていたっけ!」と、かつての経験が生きた。
携帯のアンテナが立つ所を見つけJAFに電話をかけた。説明をしてもJAFの地図に出てこないとか。
「それでは直ぐに地元に連絡しますので、担当者に説明してください。」と電話を切った。
20分くらい待ったであろうか、ようやく担当者から電話があった。
「そこは昼間一度行った事があるので、だいたい分かると思います」と。
車が見えたら私の位置を懐中電灯で知らせる事にして待った。
行くと言っていた割には時間がかかる。
待ちくたびれているとようやく車のライトが林の隙間から見えた。草原に出たらしいところを見計らって懐中電灯で合図を送ると「確認できました」との電話が入った。「これで帰れる」と安堵した。
35才前後のがっしりした体型の男性が車から出るなり、第一声が「こんなおっかない所で何をしてんすか!」。「天体観測でもしてんすか」。
「よく怖くないですね…」と周囲を見回して、「一人じゃとても行けないから一緒に行ってくれる人を探して来たんすよ」。
「この上だったらどうしようかと思っていたっすよ。上だったら帰ってしまったかもしれないっすよ…」。(上に行く道中は確かに怖い所がある)
「よかった下側で…」。
「マムシだっているっしょ…」、と。
確かに助手席には無言の女性が乗っていた。
「そりゃ怖いよな。僕だって何回来たって怖いものな〜…」。と思いながらも彼の言い方に、一人心の中で笑ってしまった。
JAFが帰った後、直ぐに本部からの電話で、「地元に要請しましたが、行きましたか?」
「あんなおっかない場所には行けるわけないじゃないかって拒絶されたんですよ」。
「本部からでは4時間はかかってしまうので行ってもらわないと、と説得に苦労しました」。
「でも行ったんですね。作業完了でよかったです」
「またのご利用をお待ちしています」と、電話を切った。
余程怖かったらしい。
おかげ様で無事帰る事ができた。
《もう帰っちゃうんすか?》
この一件から2ヶ月後、秋の気配も濃厚になったある日曜日の晩、草原の中腹に上がっていくと、見晴らしの良い草原の尾根に珍しく1台の車があった。
「こんな夜中にカップルか」と遠慮しいしい車の横を通り過ぎると、一人の小太りの男性が車の後ろにいる。
沢山の機材と共に望遠鏡が見えた。少し離れた所に止めて、「星の観察ですか?」と近づいて行った。
完全防寒姿だ。晩秋の草原は寒い。「〜〜星です」とパソコンを指さした。
綺麗に写っている。「〜〜光年離れている」。ボソ、ボソっと面倒くさそうに、それでも答えてはくれていた。
「…。それじゃ車の振動もライトも影響を受けるんでしょうね。」と言うと。
「十分受けていますよ」。今度は迷惑そうな顔…。
「…それじゃお邪魔しました。頑張ってください」。
と、帰ろうとしたら、
「えっ!」
と、悲しそうに私の顔を見上げて
「…もう帰っちゃうんすか?」
「…」
この寂しい草原で夜明けまで寒さに震えながら、一人、星の観測を続けるんだろうな〜。「気持ちはわかる」と思いながら、
それならそんなに面倒くさそうな言い方をしなくてもいいではないか。と、なんか可哀想に思うと同時に笑えてしかたなかった。
氷筍の音の録音に冬山登山
早春の録音基地として恒例になっている裏磐梯ペンション。
親しくなった七田チャイルドアカデミー福島教室の先生、唐橋氏から、裏磐梯の録音地を探すならうってつけの男がいると、ペンションのオーナー木村氏を紹介された。以来、訪れる度に3人で一晩は飲み明かすことが楽しみの一つになっている。
昨年春に滞在した時、木村氏が「この音はどうだい」とビデオを見せてくれた。それは洞窟にできたツララから落ちた水滴が、氷筍に落ちる音だった。
大小の氷筍に落ちる音はピン、ポン、コン、それは沢山の音程を持つ惚れ惚れする音だった。自然にできた水琴窟だ。
この音の場所は、喜多方市の山奥の雪深い山を登らなければならない。僕は冬山の経験もなく、おまけに近年、会社ではパソコンの前に座ったままの生活で体力は毎年落ちるばかり。特に冬の寒い時期は会社と自宅の間の300 メートルの往復のみ。ほとんど歩く事もしていない。そんな体力で登れるはずもないが、行かなければ録音はできない。「行きたいが、この体力では登れない。運動をしなければ」というプレッシャーばかりで、とうとう年を越してしまった。
今年1月末「気持ちだけでも」、とスキーウエアー、スノーシュー、スパッツ、靴と装備だけは調えたが、体の準備は怠ったまま。
兎に角、雪を歩いてみなければと、冬の富士山麓に行った。到着した翌日、幸か不幸か70 センチの大雪で交通も麻痺。ホテルの前で冬山のトレーニングができる、僕にはチャンスだった。
ホテルの駐車場から冬山の完全装備で小高い丘へスノーシューを付けて登って行った。しかし一歩毎に股まで埋まってしまう。たった100メートル進むのに10 分もかかる。大汗をかいてバテバテ、「これじゃ行けるわけない」。
翌日、「よしもう一度」と歩いたが、状況は変わらない。40 分歩いて踏み跡を引き返してみると、何と帰り道は10 分で帰れるし、それほど疲れてない。「コレなら何とかなるかも」と、少しは安堵した。
僕が先頭に立たなければ四分の一の体力で済むということだ。「先駆者の大変さはコレだ」。と妙な事を考えたが、まったくその通りだろう。
その翌週、東京、横浜も記録的大雪。「しめた」とばかり、会社から冬山の支度をして夜12 時に、降りしきる雪の中を完全武装で出かけた。
ここ菊名周辺は山坂が多い所なので、ちょっとした訓練になる。駅前に出ても完全武装の私の姿を見ても変な顔をする人もいなかった。風が吹くと雪が飛ばされ、まるで東北の雪景色だ。大汗をかいて戻って来た時は午前2時を過ぎていた。
ニュースでは河口湖がさらに記録的な大雪と言う。「行ってみたい」という気持ちがムクムクと…。
大雪から4日後、丁度滋賀の大津市で講演の仕事があり、国道も開通したので、行きがけに河口湖に立ち寄ってみることにした。
前週の70 センチの上に154 センチも積もったので2メートルの大雪。町の中は通行止めだらけ。ホテルの従業員も4日間も缶詰状態との事だった。大津市の講演を終えて再び河口湖へ…。再度冬山の訓練。新雪の中で転ぶと起き上がるのに苦労する。
裏磐梯の木村氏に電話で泣き言を言うと、「新雪ではないし、山は踏み跡があるから大丈夫だよ…」と。
それでも裏磐梯行きを躊躇していると、唐橋氏から「白内障の手術の前日は空けてあるから山行きは3月18 日にしてくれ」というメールが入った。入院前日に雪山に登る気でいてくれている。もう逃げられない。
到着すると例の如く深夜2時半まで飲みながら、「雪崩が怖いから明日は6時出発!」と言う。今からじゃ寝る暇もない。メチャクチャだ。
翌朝、林道に車を止めて、登り始めた。「今年は雪が少ない」とは言え、1メートルは積もっている急斜面の山に取り付いた。登れども登れども少しも進まない。30 分近くかかってようやく急斜面の上に出た。
その後、一旦は緩やかな斜面を登る事15 分。しかし斜面はどんどんきつくなってくる。おまけにスノーシューを付けていても足が潜ってしまう。満足な歩行ができない。スキーのストックに助けられ、何とか持ちこたえているが、35 度前後の急斜面を直登すること、どれくらいか。近年時計を持っていないので時間が分からない。それが幸いしていた。
ようやく尾根が見えてきて、あと一息と気持ちを新たに、さらに急になった斜面を登りはじめた。目の前の張り出た木の横をすり抜けようと体を横にした瞬間、足を滑らせ急峻な雪の斜面に体を投げ出された。滑落だ!
勢いよく体が滑って行く。私の下に居た唐橋氏の横を滑り落ちようとしたその瞬間、唐橋氏が私に飛びついて来た。2人でクルクルと回転しながら雪の中を落ちて行った。私はスノーシュー、彼は12 本の鋭い爪があるアイゼンを履いている。体を傷つけるのではないかと気を使いながら落ちて行った。
私の体がうつ伏せに、足が谷側になった時、足を開いて雪に足を突っ込んだ。ようやく2人の体が止まった。100 メートルは落ちたのではないだろうか…。
自分の身が危ないのに間髪入れずに身を投げ出してくれた唐橋氏。この男には頭が下がる。
体勢を立て直して再び登り始めたが、尾根は目の前にある。
尾根でさらに急斜面を降りる準備をして下って行ったが、100 メートルほど下がった所に洞窟はあった。ビデオで見た氷筍やツララより、はるかに立派なので驚いた。
早速録音機をセットして録音を開始した。時々ツララが落ちてくる。頭を直撃すれば命はない。天井を見ながらの恐る恐るの作業。
少し残念なのは氷筍が立派過ぎるためか、音の種類が少ない。しかしこれ一回限りの録音(再度来る気はない)であるので贅沢は言っていられない。
録音機をセットした頃から雨が落ちてきた。
40 分くらい録音してそろそろ終了させようかと思った瞬間。洞窟内部で「ピシッ‥ドカドカ〜ン、ガシャガシャ〜ン」。と大音響。大きなツララが落ちて氷筍を巻き込んだのだ。台所の鍋釜、コップや瀬戸物が一緒になって崩れたような音だ。
もう少し小さいツララなら氷が転がる良い音がしたろうに…。と思ったが、しかし贅沢は言えない。これでも最高のチャンスに恵まれたのだ。
その後、10 分ほど録音して洞窟を後に、雨ふる雪山を下山したが、雨で緩んだ雪は足が股まで入ってしまう。とうとう下りは2時間もかかってしまった。林道が見える最後の急勾配は体力も限界に近かった。
全身ずぶ濡れ、早く温泉に入りたい一心で車に乗り込んだ。
「一時間くらいで登れるよ」と一体誰が言ったのか。
登り4時間。往復6時間の強行軍だった。
その後、天候不順が続き、今期の冬山登山は今年最後のチャンスだったようだ。それでも運がよかった!?。「録音機材を運んでくれた木村氏、滑落を救ってくれた唐橋氏に感謝」
この録音は《冬の音》と題してCDにした。
再度石垣島へ
会報20号 2013年末号
私のシステムに感激して下さった取り引き会社の会長と部長と時々お酒の席で録音の苦労話をしているうちに、是非一緒に行ってみたいということで、今年は予定していなかった石垣島方面に行くことになりました。
6月24日〜26日まで、私は折角ですので、一週間逗留予定で旅立ちました。
石垣島は梅雨はないということでしたので、安心して準備することが出来ましたが、宿泊とレンタカーの手配をそろそろと3週間くらい前、インターネット予約をと検索してみると、どこも一杯、レンタカーもありません。キモを冷やしながら一苦労して何とか手配が終わらせる事ができました。
夏に行くことは始めてでしたので、暑さ対策と、無人島で震え上がった経験から寒さ対策両方の準備をして出かけました。
午前10時、石垣島に到着してみると照りつける太陽と湿度に閉口。朝食からステーキが出るという民宿に荷物を置き、さて海岸へと出発すると、湿度と気温はウナギ登り。案内を優先して島巡りの合間に少し録音。
これまで5月か10月に行っていましたが、照りつける太陽の石垣島の海の素晴らしさは格別。展望台から見る海の色は筆舌に尽くします。
同行したお二人の感激はいうまでもありません。
当日、石垣島を堪能し、翌日は西表島へ。
この西表島には前々回見つけた不思議な岩肌を見せる海岸があります。但し、砂浜を歩くこと一時間、その後岩だらけの海岸を30分すると到着できますが、日陰のない炎天下に歩く海岸は、それは過酷なものがあります。是非にということで案内することになりました。
到着まもなく、荷物を宿舎に置いて、ようやく手配できた頼りない軽自動車で誰も居ない海岸入り口に到着し、いざ出発。
炎天下の広い砂に足を取られながら砂浜を黙々と歩くこと一時間、ようやく目印に大きな奇岩が姿を現し、ここから30〜40分、海岸も狭まり岩を登ったり下りたり…。
しかし、それらしき奇岩も点在しているが、以前見たものとは桁が違うため、もっと奥だったのかもと、どんどん奥へ、さらに一時間進んでもそれらしきものがありません。同行したお二人も「勇気ある撤退をしましょう」と。
私も体力の限界を感じていましたし、帰りの時間を考えると日没までギリギリの時間。よくよく考えると、以前は奇岩群を過ぎるとさらに岩が険しく海岸から海へと崖になって進めなくなっていたことを思い出し、こんなに奥に入ったはずないと、諦めて撤退することにしました。
猛暑の中、岩を超えたり海に入ったり、ようやく一時間戻ったあたりで、連れが「何だコレは!」と…。
是非見せたかった珍岩がそこにありました。
私は「コレだ」と叫びましたが、では一体他の奇岩はどこへ行ったのか。珍しい岩肌を見せていた場所は「ココ」に違いありません。
奇岩の多くは砂岩で形作られたものであったため、この5年の間、何百トン、何千トンという大岩石まで、すっかりなくなっていたのです。南の島の台風の猛威を思い知らされました。
日もすっかり傾き、持ってきた水も底をついてしまいました。フラフラしながら岩石郡をようやく抜け、砂浜に到着。ここからさらに一時間歩かなければなりません。
ようやく入り口に到着した時は日もとっぷり暮れていました。車までうっそうと茂るマングローブ地帯を抜けなければなりませんが、道が全く見えません。心配なのはうっかり道を外れてハブにでも噛まれたら。と思っていたら、連れの一人が待ってください。「懐中電灯を」
「エ、そんなものを持ってきたのか???」
なにやら携帯をいじっていました。次の瞬間「ピカッ」。
「何それ」
「iPhoneの懐中電灯ですよ」
そんな便利なアプリケーションがあるだと関心してしまいました。
ようやく宿舎に到着。早速シャワーを浴びて、食事。いいえ、その前にビール!。
熱中症ギミだった私は立て続けに3杯飲んで、ようやく喉の渇きが止まりました。
その日は勿論クーラーをガンガンかけて寝たことはいうまでもありませんが、翌日頭痛が止まらない…、やっぱり熱中症。
この日は次の目的地、珊瑚が積もった小さな小さな島。知り合いの渡し船を頼んで渡ってみると、前回とは全く違って、細長くヘビのように蛇行している。
人一人が海抜1〜2メートルの尾根づたいに歩けるのみ。前回より増して綺麗だった。翌日彼らを送り出した後、再びこの珊瑚の島に戻って泊まり込みで録音をしなければならない。どこに寝るの?寝る場所さえない。うっかりすると海に落ちてしまう。綺麗な珊瑚の島とブルーの海のコントラストに、連れは大喜びであったが、「ここに泊まるんですか」「危ないから止めた方がいい」と連発。
心の中では「そりゃ僕だって今回はやりたくない」でも折角来たのだから止める訳にはいかないと心を鬼にして渡る事に決めた…。
渡ってみると少し大きなクルーズ船が船底を海底に擦って動けないでいた。チクショウと思ったが船は幸い無音。
日も沈んでボートの往来も無くなって、録音開始。今回の珊瑚を洗う波の音は前回に増して綺麗な音がする。しかし持ってきた二セットの内の一セットの録音機とマイクロフォンは例の如く、昼の録音で海で塩漬け、後悔しても始まらない。残りの一セットで録音。
二泊して石垣島に戻った。初日に案内がてら探しておいた録音場所、数カ所へ出かけた。炎天下の海岸は隠れる場所もない。足取りも重く、もうろうとしながら半ば宙を歩いているような感覚で、ただ黙々と作業をこなして行った。
夏の石垣の過酷さと、パイナップルのうまさが判った旅だった。
残念ながらその「珍岩」の写真はお見せできません。
前回の西表の録音旅行は‘ある海の風景’と題して3〜4枚のCDを製作いたしました。
自然音日記第19号 〈富士の鳥〉
13年6月
今から7〜8年くらい前の出来事です。今でこそ2日や3日出かけても仕事が山積みになることはなくなりましたが、以前はたった3日空けただけでその後3ヶ月も寝る暇のなくなるという、今では懐かしい思い出でもあります。
そんな中で少しの時間を見つけては録音を始めたのですから、さらに過酷な事でした。
それに加えて時間と費用の節約で、ほとんど車中泊でした。
山積みの作業をこなし、慌ただしく夜中の2時くらいに会社を出発。行き先は山梨県中部か北部、または富士山麓です。
録音となると夜明け前、4時15分くらいまでに録音機のセットを完了しなければなりません。
危険は承知で高速道路、人の少ない山里、山道を猛スピードで走り抜けて行きます。
今となっては、まあよく無事で済んだと思わざるを得ません。
ある時から、富士山麓にある広大な別荘地に目をつけ盛んに録音をしていましたが、別荘地はどうしても人の気配や下界の車の雑音が気になります。その後、富士山中腹に素晴らしい紅葉樹林帯を見つけ、足繁く通うようになりました。この林は樹齢200年前後と推定できる老木も多く、高さ30メートルにも及ぶ樹林帯です。地上は背丈より高いクマザサの中を懐中電灯でかき分けながら入って行きます。何回通っても背筋が寒くなる思いをします。おまけに熊注意の看板も…、録音中の機材を舐められたこともあります。
録音機は勘一つで仕掛けます。勿論、良い録音は天任せであるため、使える録音は10回に1回程度です。その日もポイントを狙って山麓の林道を走らせていたところ、いつも鳥など全く居ない所で数羽の違った種類が美しい声で鳴いていました。思わず車を止めて聴いていました。ここは別荘地に近く、車の騒音も若干入る所です。
録音機を仕掛ける時間も、撤収にも時間がかかるために、ここに仕掛けたら目標のポイントには間に合いません。とは言ってもポイントに行っても録れるとは限りません。さんざん迷ったあげく、録音機を仕掛けることにしました。
車の中にケーブルを引き込み、モニターしてみると心地よい鳥の声が…。
疲れと安心感で、うとうとしながらモニターをしていると、遠くでヒー、ヒーと何かのノイズが聞こえる。
「やっぱり車が来たか」「早く通り過ぎてくれないか」と思ってもなかなか近づかない。20分くらい経ったであろうか…。なんとその雑音は聴いたこともない鳥だと判明。ここに来てくれないかと願いながら待っていると、とうとう頭上に来てしばらく鳴いて遠ざかって行った。
疲れ切った体で2時間の録音を終えて意気揚々と帰路についた。
この時の録音が1トラックシリーズ音の風景①の「鳥のオーディション」。(このポイントの録音はある山の風景④「富士の鳥」)
翌週再び同じ場所に行った。何と今度は3種類の違った鳥が、それぞれの木で鳴いている。これは前回より良いかもと録音をして喜び勇んで帰社した。
早速、調べて見ると何も録音されていない。テープを間違えたかと、探し回った。それでは車の中に落としたか、と調べても何もない。一週間ほど探し回りましたが、ない。モニターできていたのにおかしいと、機械を調べたら、ある接続方法だとヘッドフォンから音は出るが、録音されてないと判り愕然とした。
その数日後、どっと疲れが出て、目まいで倒れてしまった。過労から来たメニエールになってしまった。
このメニエールの件は会報8号あたりに書いたのではないかと思いますが、会員さんの多くから感謝の声が届いているのを思い出し、それなら自分もと、トレーニングを開始した。
「天国の音だ。誰が作ったんだ。」と感激しながら一枚のCDを聴き終わってウトウト状態から目が覚めた。
天井を見ると、グルグル回っていた天井がピタっと止まっている。この時とばかりに帰宅して3時間立て続けに聴いた。
その後数回倒れているが、全て解決している。「こんなものを作った奴はスゲー」とその度に褒めてやった。
伝聴研4階から一時間も彩雲が
さて14号あたりで彩雲の写真を掲載したのを覚えてお出ででしょうか。もしかしたら地震雲!?
その後も、この富士山の録音は続けていますが、ある会員さんが電話で、「富士山麓に別荘を持っているけど、朝うるさいくらいに鳥が鳴いていたけど数年くらい前から全く居なくなってしまった」。と嘆いていました。僕は「そんなことはないでしょう」。
と広大な別荘地を気にするようになりましたが、確かに沢山居たはずの鳥が緑豊かな別荘地から殆ど姿を消していました。
別荘地より町中に近い所には居る。ポイントにも居る。この長さ4〜5キロもある広大な別荘地にはどこを探しても居なくなってしまっていました。
不思議に思っていました。
三年前の早春、いつものポイントに行ってみると鳥が極端に少ない。時期が早いのかと二週間後に行ってもいない。その後何回行っても鳥は三分の一以下になっていました。とうとうこの場所の録音は諦めてしまいました。
一昨年の春、再び訪れても鳥はいない。
偵察に走り回ってみると富士山ではこれまで聴いたことのない「アオジ」という鳥が数羽、針葉樹林で綺麗な声で鳴いていました。勿論録音したのは言うまでもありませんが、いったいどうなっているのか?
昨年は少し戻って来てはいたが、種類も少なく、まだ録音には適しません。
昨年の1月富士山麓、富士吉田で群発地震。河口湖と山中湖の間が危ないとの情報もあります。例の別荘地の近くでもある。地元の人に聞くと「ああ地震が起こると直ぐ表に出て富士山を見上げるよ」と。
富士山麓の観光産業の方達は踏んだり蹴ったりでしょう。
しかし私はめげずにまた今年も富士山麓に出てかけています。
多少は逃げる道を頭に置いてはいますが…。
早く治まってくれることを祈ります。
ゼロ磁場で有名な分杭峠
会報第18号 12年12月
今から10年くらい前の事になります。
南アルプスが一望できる2,000メートルの高地にある“しらびそ高原”に録音のための下見に出かけました。
中央高速で「飯田」インターを降りて、町を過ぎると果樹園。次第に民家もなくなってきます。峠を目指す曲がりくねった山道は真っ暗闇。車のライトも吸い込まれるため、突然と対向車が現れ、驚かされる事があります。
真夜中のこの慣れない道中の恐さはこの上もありません。
鳥の録音は夜明けから日の出までが勝負のため、どうしても山奥では車中泊になってしまいます。車のライトを消すと、周囲はまるで見えなくなります。
酒の力を借りて寝なければと、飲みながらサンルーフ開けて空を見上げると満天の星空。
暗さに慣れてみると星の明かりで周囲が見渡せるようになり、ようやく安心して寝られます。
そんな思いをしながらも、何回も通いました。
この“しらびそ高原”には日本で唯一隕石が落ちた形跡がある所として近年少し知られるようになりました。高原の頂上には村営の宿泊施設がありますが、他には1時間くらい下らないと民家はありません。
この道中に分杭峠1740㍍があります。
当時、昼間通ると道端に車が1、2台駐車していることもありましたが、何も感じる事なく通過していました。
ゼロ地場が有名になったのはその後です。今から5年ほど前、「ゼロ地場を発見したのは私です」。と言われる方が見えられ、「実は本当のゼロ地場は少し離れているんです」と…。
場所は教えて頂けなかったが、「それで何も感じなかったはずだ」と私は妙に納得させられました。その事が気になっていましたが、それなら場所を探してみようと一昨年、出かける事にしました。
なぜか鳥が少ない中央構造線だが、何か録れる音があるのではないかというささやかな希望を持って出かけてみました。
数日間の滞在予定で、奥の部落、大鹿村に宿をとった。
朝3時に宿を出て分杭峠に到着。録音が終わると、気場探し。
2日間探し回ったが近辺に感じられる所はなかった。
ところが、大鹿村からこの分杭峠の道中で頭が締め付けられる場所が何カ所もあるので、気になってカーナビにマークをつけ始めた。何往復もする間、同じ場所で頭が締め付けられる事がカーナビに付けたマークで分かった。どうも気のせいではなさそうだ。3日目は大鹿村の林道を走り回った。
同じように山奥の林道にも頭が締め付けられる場所がある。
初回のこの旅は何も収穫がないまま帰ったが、1ヶ月後、再び大鹿村、分杭峠へと出かけた。
前回と同じように分杭峠はさほど感じるものはなかったが、大鹿村と村周辺には、やはり頭が締め付けられる場所が何カ所もある。
林道を走り、一体この締め付けられる場所はどうなっているのかと、カーナビの縮尺を1キロ、2キロと荒くしてみた時、愕然とした。
方向も解らないまま、ジグザグで急勾配の林道に感じるまま付けたはずのマークが直線上に並んでいたではないか。
驚いてその地図を分杭方面に移動して見ると同じく直線上にあった。
この頭が締め付けられる場所は数本の直線で結ばれていたのだ。
もうこれは気のせいではない。
その後、合計5回、15日ほど、この地を走り回ったが、その場所は確実なパワースポットであることがわかった。
特に強い場所も数カ所あり、寒い早朝、鼻がグスグスしている時も、その場所にくると鼻が通ってしまうほどの強さだ。
そして今年、雪解けを待って、もう少し良い録音をと、出かけた際、その地点を注意深く観察してみると、驚いた事に強さが変わっていたり、場所が50㍍〜100㍍ほどずれていたり…。
前回紹介したパワースポットの音3枚に続いて、今年の春、この地の録音を二種類制作しました。
膨大な録音の精査と編集をしているうち、おかしな事に気づきました。これが定かな事かは分かりませんが、強い場所になると超低周波で、まるで機関銃を撃ったかのような「ドドドド」、「ドドドド」と音が入っています。私にははっきり聞こえるのですが、会社の者に確認しても解らないと言います。
この現象は〈富士の森と聖祠〉にも入っていました。富士は北富士演習場が近くにありますので、機関銃の音と思って、良い録音も、その音が入ると没にしていたくらいですが、この大鹿村100キロ四方そのような場所は一切ありません。それも日の出前後の午前4時〜5時。
いろいろ注意して聴いていると、分杭峠の録音にも微かに…。
さらに録音を調べていると、後頭部がゾクゾクする感じがあり、これまで録り貯めた他の自然音を調べてみましたが、その感じは確かに違います。
「気」は録音できる事はこれまで確認していますが、この地場の「気」なるものも確かに録音できていました。
折角見つけた「気場」です。雑誌に出すと荒らされます。CDには特に詳しいこの地点の地図を差し上げています。興味がある方のみの秘密の場所で良いのでないでしょうか。伝聴研会員の特権としましょう。
前回3枚に続いて〈2種類のパワースポットの音〉《分杭峠の気音》《葦原神社と大池の気音》を製作しましたが、特にパワーを感じた地点を地図にしてあります。5点のいずれかをお求め頂いた方には観光地図にポイントを記した地図を差し上げています。備考欄に地図希望と書いてください。
分杭峠はゼロ地場として全国的に有名になりましたが、私の感覚ではこの地点にはそれほど強いものは感じません。
むしろこの地点を前後に下がった所。例えば現在分杭峠に行くには大鹿村側か長谷村側の駐車場に車を置いて、そこからシャトルバスに乗って行くことになります。
実におもしろい事に、両側とも、この駐車場がとても強いのです。
その強い所を無視して気の少ない分杭峠を目指して行くのです。皆様はどう思われますか。
自然音日記 会報17号(2012年6月号)より
前回もご紹介した広大な草原。虫の音の録音に夢中になり、春から秋にかけて、合計30日以上も通いました。春は山菜の宝庫。秋はススキのメッカ。
草原に点在する広葉樹に鳥が来ては囀っています。周囲の森からも鳥の声が沢山聴こえてきます。
深夜の怖さから一転、夜が明けてみると、それはのどかな、気持ちの良い草原に早変わりです。
この草原を見つけた翌年の春、霧が立ちこめる早朝、チュクチュクチュクチュク、何か鳥のような声であるが、姿は全く見えない。時々霧の切れ目から雀くらいの鳥が飛んでは降りる事を確認していたが、それがまさか、探し求め、半ば諦めていたヒバリだとは録音を確かめるまで気づく事ができなかった。
録音は自分の立てる雑音を防ぐために、録音機を仕掛けると、直ぐに立ち去ってしまい、いつも会社に帰って、録音を調べるまでは何が入っているのかは分からない。
この時の録音はどうせダメだったと一週間も放置。一応と聴いてみて思わず小躍りしてしまった。
録音全てにまんべんなく、あちらこちらで飛び立ったり降りたりの連続でヒバリが鳴いていた。また霧であったのも幸いして遠くの沢の雑音が霧に吸収されていた。
更に私を喜ばせたのが、その後凄まじい音ではあるがアカゲラらしき木をつつく音が30分も入っていた。ヒバリとアカゲラの競演だ。このCDは次回の会報までに作ろうと思っている。《草原の早春》
さて、この草原には数カ所トイレが常設されていて、ドアの所にマムシ注意の張り紙がある。
マムシの生態を調べてみるとハブより毒は強いとある。但しハブより毒の量が少ないので死に至る事は少ないそうだ。
ヘビと聞くと身の毛もよだつが、良いポイントと思ったら湿地、草地、構わず入って行くので、南の島で覚えたハブよけの長靴が活躍している。
先頃、この草原での鳥の声も魅力であるので、夜明けを目指して録音機を仕掛けた。日が昇り、暖かくなった草原と森の境あたりも良いのではないかと、草原から森の中へ10メートルほど入った所にも録音機を仕掛けてみた。
1時間ほど経って録音機を引き上げようと、草地から森へ一歩足を踏み出そうとした瞬間、目の前で「カサ」と音がした。「何だろう」と踏み出すのをやめ立ち止まった事が幸い。
何と足先50センチほど前にヘビがいるではないか。それも首を引っ込め、攻撃態勢に入っている。
「攻撃態勢に入るヘビは?」
「もしかすると!」
ウヒャ、マムシか?
子供の頃、2回ほど見たマムシらしいヘビも逃げなかった。
確かめるために木の枝を投げつける。
逃げない。木で叩いてみた。逃げない。少し動いては攻撃態勢だ。
長い木の枝を持ってきて、ヘビを持ち上げて、放り投げた。着地してもすぐさま攻撃態勢。
姿形からも間違いなくマムシだ!
もう一歩踏み出していたら間違いなく咬まれていた。
春は草も伸びていないので普通の靴だった。アブナイ危ない。
写真を撮ればよかったと思っても後の祭り…。
《録音日記—久米島へ》
会報16号 2011年冬号
5月の連休前の大潮を狙って、数年ぶりに南の島に行くことを決めた。
かつて訪れた沖縄の離島、慶良間諸島の美しさに惹かれ、今回はさらにその奥に微かに見える焼酎で有名な久米島に狙いをつけた。
幸い、時々電話を頂く会員さんが久米島に住んでおられるので、久米島の情報をお願いをしました。
久米島にはハテノ浜という、ヘビのように細長く伸びた無人の島がある。地図でみると、長さは5キロくらいあるだろうか。
このハテノ浜と、珊瑚の海岸、パワースポットの情報、宿泊、渡し船など、必要な情報全てを調べて頂いた。
飛行機の予約も取り、機材も久米島の民宿に送り出し、さて明日出発。
何となくインターネットでの航空券の予約に不安を感じ、念のためと電話をしてみた。
確認して驚いたことに、那覇から久米島への便は私が羽田を発った一時間後の予約になっている。間に合うわけがない。焦ってANAに電話をしてみた。
「明日の那覇の便を予約した者ですが…」
「…、誠に申し訳ありませんがご予約頂いた便は欠航でございます」
「えー…!」
「代わりの便をご用意しておりまして30分後の便になります」(そりゃ何だよ)
「…!??…!」「しめた」
(困った振りして)「30分!…」。
「30分では返って中途半端な時間になってしまうので、二時間くらい前の便ではダメでしょうか」
「結構でございます」
(心では)「ホッ、やった〜〜」
と言うわけで乗り継ぎも何とかなった。
あれほど乗り継ぎ時間を確認したのに。チェック項目を間違えてしまったらしい。先が思いやられる!
飛行機から見る久米島は想像以上の大きさと山に囲まれていることに驚いた。
久米島に到着。さてレンタカーと思ってターミナルを出ようとしたら「傳田さん?」と日焼けした人の良さそうな男性に声を掛けられた。
なんと渡しの舟を頼んだ船長だった。会員の宮里さんに迎えを頼まれたとの事。
その足で島内の海岸、お城、様々なスポットを案内してくれた。
中でも会員の宮里さんが好きで良く行くという丘に立ったところ、島の殆どが見渡せる絶景の場所。色とりどりの海が見え、長いリーフに沿ってハテノ浜が細長く伸びている。絶景だ。
翌日は早速、ハテノ浜の偵察に出かけた。大潮の干潮時の影響で船の通り道は珊瑚礁の間を抜けての難しい航路らしく、スクリューを持ち上げての航行だ。
すぐそこに見える浜も40分もかけて到着。
島には日をよける小さなビニールシートを貼った小屋が一つだけある。
ここならテントを張らず雨露を防げる。明日はいよいよここに泊まって録音と決め込んだ。
満潮は朝晩の6時なので、午後に島に渡り、夕方に録音、夜は仮眠、そして明け方再び録音、朝の9時くらいに迎えにきてもらうという計画を立てた。
到着して直ぐに、永細い島のアチコチを歩いて録音を試みながら荷物を陸揚げした所へ徐々に移動して行ったが、変な事が起こる??。
録音して来た場所が無くなっているのだ。慌てて本拠に戻る。
戻って観察していると隣の小高い島との間が海になっている。自分が居る所もどんどん狭くなって来ている。とうとう隣にあった長い砂浜が波に埋もれて海になってしまった。
自分が居る所もどんどん小さくなっている。
「エー!」「ヤバイ!」
小屋の中に救命胴衣が一つ吊されていた。「もしこの島も埋まってしまう場合はこの救命胴衣しかない」。
と極めて心細くなった。
遙か先まで続いていた数㎞の細長い島も、とうとう僕が居る長さ200メートル、幅50メートルになってしまった。標高は1〜2メートルだ。
幸い小屋は波打ち際になるが、埋まらずにある。しかしここでは1メートルの津波が来ても埋まってしまうと不安でしかたない。
満潮の6時になって、多分これ以上潮は上がって来ないだろうとようやく安心した。
船頭がここに送ってきた理由がこれで理解できた。
安心した所で小屋に入った。一方が全開な小屋だがうまく北風を防いでくれている。寝袋に入った。
朝5時になっても真っ暗で夜が明けない。雨雲が立ちこめているのか。今日の録音は諦めかと寝袋から外を眺めてウトウトしていた。
小屋の中の砂は踏まれてしてカチカチで背中が痛く、風で体温が奪われ熟睡もできない。一晩中寝ては目が覚めの連続だった。本心は録音などせずに寝ていたかったが、寝苦しさに再び目を覚ましたら、何と砂浜に日差しが見える。驚いて外に出てみると朝日が海から顔を出ている。
時計が狂ったのかと時計をみると6時近くになっていた。いったいどうなっているのか?…。
潮がどんどん上がって来ているので、慌てて録音機材を持ってセットに走った。
時間が経つに連れて光が強くなる。携帯の画面も見えない程の強い光だ。
録音も終わって、小屋の中で迎えの船を待った。
「一体この島の夜明けはどうなっているのか」、しばらくしてから気づいた。横浜より1時間強、夜明け、日没が遅いのだと気がついた。
民宿に帰って仮眠を取り、前日の背中の痛さを今夜は何とかしないと、とスポンジシートを手に入れた。
夕方再び浜に送ってもらうが、前日よりさらに強い風が襲って来る。
船頭は「今日は止めた方がいいんじゃないか」「雨は心配ないと思うけど、寒さ対策はしているか」と心配をする。
「もしなんかがあれば電話をくれ」と言い残して帰っていった。
以前西表島の無人島で、震え上がった事があるために、前日に増して十分過ぎるほどの防寒対策はしていた。
日が沈むと同時に昨日に増して寒さと強風が襲ってきた。4月半ばだが昼間は半袖。ところがハテノ浜での朝夕はまるで真冬の格好で録音をするはめになった。
夜はさらに風が強まり、寒さで寝るに寝られない。一枚着込み、また一枚、また一枚と持ってきたもの全てを着込んで、靴下もはいた。
あとは薄い寝袋カバーと金銀が塗布してあるビニールのエマージェンシートだが、これは寝袋に入れると汗でビショビショになって風邪をひく。
ビニールシートの小屋
しかし寒くて寝られない、そこで一計を案じた。汗は出し、水は中に入れないというカッパ(ゴアテック)を買って持ってきている。試しにこれを着込んで、その上にエマージェンシーシートを被せたらと。初めての実験なので、恐る恐る上半身にはビニールがかからないようにして、腰から下に巻いた。しばらくしたらようやく足も温まってきてウトウト…。いつの間にか眠りについた。
明け方寒さで目が覚め、汗を確認してみたら、衣類は濡れてない、シートを触ってみると水滴だらけだった。
「汗は通し、水滴ははじく」宣伝文句通りの凄い性能だ。安心して全身に被った。
空が白んできても、寒さはさらに増してくる。
余程電話して迎えに来てもらおうかと思ったが、大潮時の干満の水位の差は4メートルもあって岩や珊瑚が露出している。まして夜の航行は頼めない。我慢をして夜明けを待った。
日が出てきたが、それでも寝袋から出る勇気が出ない。満潮の時間も迫ってくる。
こんな強風の中での録音はマイクロフォンが吹かれるし、倒される危険がある。しかしやるだけやらないときっと後悔する。と勇気を振るって録音の支度にかかった。
島の風が少しは弱い南側にマイクスタンドが倒れないように5本ものペグを打ち込み仕掛けた。もう一台を遠浅の海中にセットしようと、3本目のペグの紐を録音機に結わえようとした瞬間、マイクスタンドが風にあおられ海に倒れた。浸かる寸前で拾えたが、慌てて掴んで引いたために、勢い余って反対側に飛ばしてしまった。
持ってきた一番高価な2本のマイクロフォンを塩漬けにしてしまった。「またやってしまった」と、がっくり。
録音も殆ど終わりかけた頃、ようやく日差しが暖かくなった。今度は一枚一枚、皮を剥ぐように上下6枚の衣服を脱ぎ捨てて、再び、半袖一枚になった。
観光客を乗せた舟も何隻か来はじめた。
光は強いが水着姿が寒々しい。とても海に入る温度ではないなどと見ていると、前日とは反対側の砂浜に「やあ、お待ちどうさま」と船頭が観光客を乗せてやってきた。
帰り、行き交う舟から「大丈夫だったのか」と声を掛けられる。…
船頭は「ああ、この通りだ」とばかり僕を指さす。
何の事かと思っていると、船長は「傳田さんはもう島では有名人だよ」。「次に来るときはハテノ浜に住民票を持って来た方がいいって皆言っているよ」、と大笑い。
二日間無人島に泊まった事が島の漁師や船頭の間にアッという間に広がったとか…。
船頭は「今朝は寒かったな〜」」俺はぬくぬくと家に居たけど、てっきり電話が来ると思っていたよ。」
「僕だって何回電話しようと思ったかわからないですよ」「でも電話したら夜、来てくれたんですか?」「来られるんですか」と聞いたら。
「そうさな、電話の声次第だったかな」と。またまた大笑い。
「天気は下り気味だけど明日はどうする?…」と。
久米島本島の海岸を録音しながら島内部の各所を回ることにした。
翌日の天気は悪く雨まじりだ。雨の中、波が打ち付ける岸壁によじ登り録音。
珊瑚の砂浜で録音。
あっという間の一週間だった。
合計40時間くらいの録音をしたが、帰宅して精査してみると鳥の録音は全滅だったが、久米島本島の海岸の音は4〜5時間良い録音があった。
初回の地で録音ができるのは珍しい。
会員の宮里さんのおかげで、それは思い出深い旅行になった。
宮里さん、船頭の宗形さん、たいへんお世話になりました。
この久米島の録音はトレーニングCD《引き潮》で使った。
【熊野市の花火大会へ】
会報15号 2011年夏号
前号の続き
毎年8月15日に行われる諏訪湖の花火大会、20数年ぶりに最適なポイントを見つけて録音を済ませた。その翌々日に開催される、海岸にできた洞穴の前で打ち上げる、音で有名な熊野の花火大会へ(体感震度7と触れ込みだ)。
4〜5時間で到着できるだろうと思っていた諏訪から熊野は、7時間もかかって、とうとう夕方の到着になってしまった。
花火大会当日の会場近辺は人混みに加え、車は24時を過ぎても渋滞は解消しないと聞く。諏訪湖と同じ状況のようなので、打ち上げ会場の左側に伸びた半島の先端あたりの場所に狙いをつけた。
まずは偵察と半島の山道を辿って海岸へと足を進めたが、風一つない無風の半島はまるで蒸し風呂状態。
これ以上先端に行くと打ち上げ会場が見えなくなるという場所まで来たが、『海岸は崖下200メートルにある。道もない』。と思ったら獣道のような、人が歩いたらしいうっすらとした踏み跡が目に入った。100メートルほど平行に進むと、海岸へと降りる直下の道に変わった。岩であれば足下はしっかりしているが、一歩間違うと滑り落ちてしまう砂利まじりの乾ききった土である。所々にロープがあった。何のためにこんな所に人が来ているんだろうと不思議に思っていたが、高波の時の船が出せない時のための、釣り人の秘密の道らしいことが後でわかった。
眺望もよし。ここを録音地と決めた。
全身汗だくになりながら車にとって返したものの、昼間でもキツイ急勾配を20キロの録音機材と手荷物を持って、ここを下りられるか。帰り懐中電灯で登れるか。不安にかられ、さすがの僕もたじろいだ。
しかし、行かなければきっと後悔して、また来年ということになる。天気も快晴…。「行くしかない」、と心に決め、日が落ちる前に出発した。
夕闇が迫る山道は昼間と様子が違っている。既に全身汗だくになって直下の道に入って行ったが、いくら探してもロープの場所が見つからない。とうとうまったく道のない崖を滑り降りるはめになってしまった。
着いた場所は岩場の上ではなく、ゴツゴツした岩が密集する海岸べりに出てしまった。
足を踏み外すと岩の隙間に落ちるか海に落ちるか無事では済まない場所だ。まだ日があるうちにと録音機の支度にかかった。打ち上げまでに腹ごしらえと岩陰で食事を取りながら休んでいたが、乾ききった喉に食事が通らない。ペットボトルの水の残りはあと一本。
いよいよ日が暮れてそろそろ始まる時間と思って海に目をやってみると、なんと信じがたい光景が目の前にあった。
豪華客船が三隻、煌々とまばゆい光りに包まれている。
俺はこんな所でキツイ思いをしながら一人寂しくやっているが、アソコじゃ酒も飲み放題、にぎやかに楽しくやっているのだろう…と。何とも虚しくなってくる。
花火が始まった。肝心の花火の音は会場付近の岩場にじゃまをされて間接音しか届いて来ない。「やっぱり初めての録音はこんなもんよ…」と自分を慰めるしかない。
「こんな苦労をして、あの客船の…」とますます惨めになってくる。
打ち上げ時間もアバウトだ。9時までの予定が9時半になってもやっている。最終らしい「体感震度7」という触れ込みの音らしき花火も、それらしき風圧だけが届き、音としては殆ど到達しない。
懐中電灯の光頼りに慎重に岩から岩を飛び移り、機材を片付けながら「本当に帰れるだろうか」という不安がよぎってくるが、「登るしかない」と足を踏み出した。
一歩登ると半歩滑り落ちる、を繰り返し、真っ暗な急斜面を勘一つで上の道を目指す。いくら登っても道に出ない。汗が滴り落ちる。岩が立ちはだかり進めない。また下りて迂回することの繰り返しでヘトヘトになった。
その時、「ズルッ」と足を滑らせ、登って来た道を滑り落ちた。滑り落ちながら30メートル程先の木に捕まれそうだと思った瞬間、股がギュっと締まった、と思ったら止まった。
「助かった!」
蔓が股に挟まっていた。
蔓をはずし、さてまた登ろうか、もう直ぐのはずだと立ち止まって眼前の岩と周囲を見回すと、立っている所から踏み跡らしき筋が横に伸びている。何と、そこが横に伸びる獣道風の道だった。必死に崖を登っているうちに通り越してしまったのだ。
「しめた」と水平の獣道を辿り、ようやく山道に出た。
ここからまだ40分、震える足で歩かなければならない。車に戻ってまず「水をたらふく飲んで車のクーラーを目一杯低くして涼むのだ」。思いを巡らしながら自分を奮い立たせ、何とか車に辿り着いた。
全身乾いているところがなく、素っ裸になって着替えをしたが、普段体臭など感じた事のない私の衣服が汗臭いこと。
2リットルのペットボトルを瞬く間に飲み干した。エアコンが有り難い。「天国じゃ、天国じゃ…」。
漁港のここでエンジンをかけながら寝るしかない、と2〜3時間疲れを癒していたが、遠くに見える国道の車が動きはじめている。
高い所へ出て自然の風を浴びながら寝た方が、省エネにもなるし、気持ちもいいだろうと車を出した。
一キロも行かないうちにアクセルを踏む右足が吊ってしまった。しかたなく左足でアクセルを踏んでいると左足も吊ってしまう。
交互に踏み換えながらようやく峠に出て、停車した。
頭痛が酷い、熱中症だ。さらに水分を取りながら横になった。車内に入ってくる風は少しも涼しくないが、窓、ドア、サンルーフ、すべて全開にした。「アア、また酷い目にあってしまった」などと考えているうちに、意識が次第に遠のいていった…。
・ ・・・・
その後、諏訪湖の花火は「夏の思い出」と題してCD化した。
【広大な草原を発見!】15号 追記
草むらの虫の音の録音は、今では田舎とて深夜も絶え間ない車の音に悩まされ、挑戦と断念の繰り返しでした。
諦めかかったある時、日本でこれ以上の場所は見つからないだろうという広大な草地を見つけ、せっせと通いました。自衛隊の北富士演習場だ。数年通ったが、やはり遠くに走る車の音、工場の深夜操業の雑音を省く事が出来ず、ここもやむなく断念せざるを得ませんでした。
それでも、草むらを見つけては、何とか録音を続けていましたが、偶然を狙うしかなく、その偶然も10回行って1回程度の確率でしかありません。全く当てにならない無駄な努力を強いられていました。
一昨年の晩秋、地元の人に「この辺は鳥が沢山居そうですね。」と尋ねたら、「ああ、あそこならもっと居るよ」、と教えてくれた場所の奥は、何と、車も来ない大草原でした。
ここは雨さえ降らなければ100%の録音が可能です。
開発され尽くしていたと思っていたこんな所に、こんな広大な草地が、それも静か極まりないない、いくら考えても首を捻るばかり。それも道路は行き止まりで、殆ど車が入ってきません。飛行機も気になりません。そのかわり夜一人きりの録音は怖いのなんの。おまけに「マムシ注意」の看板が。沖縄の離島で覚えた長靴を履き、こわごわ草地に分け入って行きます。
「え、それは何処?」
「え…」
イエイエ、それはやっと見つけた場所です。録音ポイントは幻のキノコと同じ、女房子供にも言えませんよ。遺言ですね。
来春までには沢山の虫の音のCDが作れそうです。
乞う、ご期待。
4月14日〜21日まで会員のお力を借りて、久米島に波の録音に行ってきました。
また5月末には恒例になった裏磐梯の友人のペンションに逗留して、鳥の録音に行ってきました。
例の如くに珍道中記は改めてお知らせいたします。
会報14号 2010年冬号
「今年こそは最高の録音を」と意気込んで出かける諏訪湖の花火。
始めて訪れた時から約30年。録音を試みてから20数年になります。当時、諏訪湖の花火は今ほど有名ではなかったですが、バブル崩壊前の花火は実に豪華でした。
今では40万人を越えている観客数ですが、その頃は当日早めに到着できれば、近くの湖岸に席は十分取れました。
有料席なら打ち上げ台近くに録音機をしかけることもできました。しかし何回チャレンジしても思うような録音ができず、いつしか夏だけではなく秋の花火も通うようになりました。それでも思うような録音ができないでいました。‘ミラクルサウンドBOX’や‘ブレインスイッチBOX’に入っている花火の音は中でも何とかお聴かせできますが、この諏訪湖の花火の音です。
ここ数年はすっかり諦めていましたが、自分も見物しようとさえ思わなければ、木陰などでも録音できる場所もあるのではないかと思いなおして下調べをしていた所、諏訪の友人から、「立石公園は距離的には近いので、録音できるのではないか」という情報をもらい、その周囲を散策。お墓の中などの探してみました。アチコチ探しているうちに「もしかするとここは人が来ないかも!」という場所を見つけた。
そこは諏訪湖が一望できる人っ子一人居ない、録音には最適地だ。下界には40万人以上がひしめいているとはとても思えない孤独な世界に奇妙な感じを受けながら初めてまともな録音ができた年でした。
15号に続く
そして今年も、もう一度!と早めに出かけて周囲を探していたところ、さらに湖に近く、丘に囲まれた絶好の録音適地を見つけた。農家の人に聞いてみると、「こんな所で見るヤツなんかいねえよ。」と言うことだったので、さっそく録音機をセット。周囲は一万人でも見物できる広さの中で、また孤独の録音が始まったが、そこは花火の音と同時に、虫の音も収録できるという絶好の録音地でもあった。音の環境は言うまでもなく、これ以上の適地はないという所だ。ここで夏、秋の2回の花火の音を収録し、二十数年ぶりの大成功・大満足の録音を済ませた。
ある山里の風景《夏の思い出》になった。
その諏訪湖の夏花火の翌々日行われる、熊野市の花火大会に録音のため足をのばした。花火の音で有名だというが、諏訪から熊野までは車で6〜7時間の距離。
なんの情報もなく地図上で調べ、一路目的地に…。待っていたのは…まさか!
===自然音の録音を始めたきっかけ===
人間は自然の産物であるから、必ずや自然から大いなる癒しを受けて進化してきているはずだ、という直感があったからです。
私自身、奥多摩の山々が見える田園風景が広がる自然豊かな所で育ったこと。
その昔山男であったことなどが影響していたと思います。
時は自然音ブーム。
沢山の自然音が市販されています。その音源を借りれば良いと、百近くの自然音を調べました。中には一万円を越えるものもありました。しかし何故か‘ピン’と来るものがなく、反対に聴いてイライラさせられるものが殆ど。
もしオーケストラの音楽を録音するとなれば数百万もかかるけど「自然はタダじゃないか」。「それなら自分で録音すればいいだろう」。と思ったのが間違いの始まりでした。
そしてその後、皆さんが伝聴研ニュースで知っての通りの、悪戦苦闘となったのです。
= 発見!《自然の中のノイズ》=
自然音を自ら録音しようと決めた一つのきっかけは、録音機は音楽をやっていた頃に使っていた高性能のデジタル録音機DAT を持っていたこと、マイクロフォンもそこそこのものを持っていたことでした。しかしマイクロフォンを調べてみると壊れて使い物にならず。
新しくするならできるだけ高性能のプロ用のものと。戦々恐々としながらプロショップへ…。
威張った店員が出てくるのではと思いきや、意外に親切に対応してくれる。薦められる幾つかを耳で比較して「コレなら買える」と、いう製品を買ってみた。
さて録音の時間を捻出しては、判らないまま録音に出かけてみた。鳥がいるとマイクロフォンを向ける。
しかしなかなか鳥は一点に留まってはくれない。追いかけては短時間の録音を繰り返していた。
しかし、その殆どは音を聴いてみると「ザー、サー」という音が耳につく。車や飛行機の雑音を避けられたと思っても収録できた音はテレビの砂嵐のようなノイズが混じる。
これが多い時や少ない時がいろいろあって、機械のノイズではないかと、悩んだ末、DAT を買い直した。
しかしノイズは更に多くなってしまった。困り果ててオーディオショップに相談してみると、なんと「マイクロフォンジャックにマイクロフォンを繋いではだめなんです」。と、すまなそうな顔。「専門家はマイクロフォンアンプを使って、ライン入力へ入れるんです」という答え。
仕方なく高額なマイクロフォンアンプを買うはめになった。
しかし録音をして聞いてみると多少、少なくはなっているものの根本的には解決しない。
困り果てて、知人の音響技術者に自然音の録音をしているプロの機材を調べてもらった。ところが多くの人は私の機材と殆ど同じと言うことで安心はしたが、ノイズの問題は解決していない。そこでこの友人の提案を受けて、さらに高性能なマイクロフォンアンプの前に付けるアンプを作ってもらった。世の中に誰も持っていない超高性能な録音機に変身したが、それでも根本的解決ではなかった。
そこで彼と話し合った結果、専門家はクリアーに録音するためにパラボラアンテナ風の集音機を使ったり、指向性のマイクロフォンを使ったりするのではないか。という結論に達しました。
それで市販の自然音は人為的なためにイライラさせられるのではないかと、なんとなく理解、納得もできたのでした。
しかし作ってもらったアンプのおかげでノイズは半減したものの、まだ根本的な解決とはならなかった。
録音を始めてから既に3年が過ぎ去った。
====== 驚愕の出来事======
4年目の春、鳥の録音は野辺山の別荘地が有名だと聞きつけ、暇を見つけては無断進入。
ここは標高1,500 メートルくらいから2,000 メートル付近まで別荘地が広がっている。
ある日、いつものように車の中で一晩過ごし、その日は夜明けと共に中腹の高台から録音することにした。
ここは視界が200 度以上拡がる高原状で、眼前は上から下へとなだらかに広がる広葉樹林帯が一望できる。近く遠くにウグイスが何十羽も鳴いている。
「これぞ望んだロケーション」と、録音した音をモニターしたところ、凄まじいノイズの中にかすかにウグイスが数羽聞こえるだけ。「またか」と、愕然。
何のために来たのか。この原因を探らないといつまでたっても解決しない。思い切って録音を諦めて機材を調べることにした。
30 分かかって全ての部品を調べたが異常どこにも見つからず、相変わらずノイズが入る。再び調べる。しかし全く同じ状況で、性能の問題とも思えず、また原因も解らない。
途方に暮れながら登る朝日を恨めしく眺めるだけ。鳥は今がさえずり時とばかり、素晴らしいロケーションの中で鳴いている。泣きたいのは僕の方なのだ。そうこうしているうちにとうとう最高の録音時間は過ぎ去ってしまった。
=== また聴こえない音が? ===
今から30 年ほど前、勉強のために数千回と聴き込んだレコードから、それまで『聴いたこともない音が聞こえてきた』、その時のことが鮮明に蘇ってきた。
その経験を聴覚システムへと発展させてきた訳だが、まさか『この高原に聞こえない音があるわけがないだろう』と思いながらも、そうとしか考えられなかったために「まさか」とは思いつつ一応確かめてみようという気になった。
そこでヘッドフォンを耳に当てて、録音機の音をモニターしながら、同じような雑音を歯の隙間から「スー、シー」と発音しながらヘッドフォンを取る。高原の音に耳を澄ませながら発音を止める。「…」
再びモニターをする。また「シー」と言いながらヘッドフォンを外す。「…」
これを繰り返していた。
数回目の時であった。何か高原から聞こえてきた。「エッ???」。
更に繰り返していくと、繰り返す度に私の耳に雑音が聴こえてきた。
何と驚くべきことに機械は正確に録音をしていたのだった。
原野が自然に発する音を自分の耳が、シャットアウトしていたのだった。
よく考えてみると当たり前の現象だ。
高原に広がる広葉樹林帯には数兆枚の葉が重なり合っている。たとえそよ風でも葉と葉が擦れる。その数兆枚という葉の擦れる音がしないはずがないのだ。「サー」というノイズは自然が生きている証だったのだ。
森林浴で山は静か、気持ちが良いとよく言うが、こんな所にも未知な現象が存在していたのだ。
なんということだ。また私の耳に聞こえない音が飛び込んで来た。「耳(脳)とはかくも不思議なものだ」。と改めて教えられた。
勿論それ以来、耳を澄ませば殆どの音はキャッチできるようになったが、この山のノイズは切ってはいけない重要な音だったということに気づかされた最初だった。
つまり人間は悠久の太古から、この自然界が発する自然の雑音に癒されながら歩んできたということですが、自然が発する雑音がなく、騒音だらけの社会が人間をダメにしているということも言える訳だ。
また自然からわれわれが受け取れる直接的な、精神、体への癒しも、文化、科学、便利さの下に、自らが拒絶してしまっているということだったのだ。これらの経験から、雑音、高周波ノイズはバランス良く録音することが良い自然音の録音であると認識させられたのだった。
この現象が明らかになったとき、何故調べた百枚近くの自然音にイライラさせられたのか納得できた。
鳥は一点に留まっていない。仕事となると時間的な制約がある。ノイズのないクリアーな録音をするために指向性、集音機を使う。機材は私のように乱暴には扱えない。さらに雑音がない音が良い音だと思っている。つまり録音者はこの現象を知らない、聴こえない等、様々な理由から不自然な自然音「非自然音」となってしまっていたのだった。
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太古の昔から人間は水辺で生計を営み、野山に狩猟採集に出かけた。
その記憶が子供の水遊びに、そして男は棒を持って遊び、女の子はおままごとやお人形さん遊びをする。それは遺伝子に刻まれた道筋なのではないかと思っています。
子供は自然から学び、育っていく。現代社会は子供の遊びという重要な学習、創造を、親を満足させる人為的な「教育」というものにすり替えてしまっているのではないかと感じさせられます。
それを考えると、私は何もない時代、腹が減らなければ家に戻らず遊び回っていた。戦後で貧乏で、食料事情も悪く、米の弁当を持っていくにも事欠いた。幼稚園もない時代に生まれたことを感謝しています。
会報12号
2009年、年末号(2009年12月
12月4日と言えば冬だ。七田チャイルドアカデミーの沖縄教室の母親セミナーで数カ所を回りました。
冬の南の島は何回も行っているので、ある程度の温度は予想していましたが、空港に降りたってみると何と、29度と真夏の暑さに驚いた。沖縄と言えども異常とか。
折角の旅ですのでセミナーが終わったあと、海の音の録音にと、今回は徳之島に足をのばしました。
徳之島へは奄美大島を経由して、軽飛行機に乗り換えて戻るというコースしかありません。交通費がたいへんなので、中でも一番安い民宿を取りましたが、それでも民宿から空港までの送迎をしてくれる。滞在中は軽自動車を無料で拝借できるという待遇の良さ。
沖縄の真夏から一転、奄美大島で降り始めた雨が徳之島ではさらに寒さを増し、横殴りの雨に…。
通された部屋にはテーブル一個だけの四畳半。
シーズンオフのため宿泊客は私一人。あまりの寒さに体の震えが止まらなくなり、共同の風呂にお湯を入れる勇気すらなくし、ひたすら着込み、布団を被り…。
窓の外には地植えした屋根にも届く大きなブーゲンビリアの紫と赤い花が咲き乱れて窓を飾っている。
一時間ほど経った時、そうだエアコンがあるはずだと気付き、わずかな希望を持ってコントローラを見ると、暖房の文字が…。30度の最高温度に設定し、しばらく待つと、それはそれは暖かい南国の空気が出てきました。ようやく体が温まって安堵して眠ることができました。
翌、早朝雨が上がった事を確かめ、民宿で借りた軽自動車で島巡り。「凡そ、このあたりが…」。と聞いていた地点を巡るが、海岸は素晴らしく良いものの、小潮の時期で満潮の潮位が低い。肝心の所まで波が上がってこない。
夜の満潮を期待して、昼とは別の場所に録音機を仕掛けてみたものの、やはり潮が殆ど上がって来なかった。
翌日、海水浴もできる大きな砂浜、有名な喜念浜に行くことにした。
到着してみると砂の多さにビックリ。録音のモニターをしていると、猛獣のような鳴き声に「何事か!」と、首をすくめて振り返ってみると、見たこともない大きいイカツイ体型の牛を子供が引っ張っていた。有名な闘牛の牛の運動を砂浜でさせていたのだった。興味深い光景を見た。
闘牛の声を録音してもしかたないので、この数キロ広がる浜の音の良さそうな所に400メートルほど離して、東西二箇所に録音機をセットしてみた。しかしここもあまり期待持てないが、万に一つの‘下手な鉄砲’の録音を試みた。
一応満潮時刻も過ぎて、さて引き上げようかと東側の録音機の所から西側の録音機を先に片付けようと移動して、マイクロフォン、録音機と片付けながら、東側立てたマイクロフォンを見ると、海岸に見あたらない。マイクロフォンと録音機を片手に少し場所を変えて見るが、見えない。「もしや」とイヤな予感が頭をよぎって、200メートル100メートルと近づいて行くが確認できない…。早足になり、走り、足場の悪い砂浜をゼーゼーさせながら半分ほど走ると、倒れていることが確認できた。到着してみるとマイクロフォンの一本が波に浸かってしまっている。
三方向にペグを打って補強していたにも関わらず「またやってしまった。」とガックリ落ち込みながら波打ち際から海水の跡がない所へと手に持っていたマイクロフォンと録音機、倒れた機材避難させて、残したままの西側の機材の片付けに戻り、再び東側の録音機の所に近づいた時、衝撃が走った。
砂浜に付いている波の跡がおかしいことに気づいた…。倒れたマイクなどを置いていた場所に目を移すと、機材の先まで波の跡が…。ギョ!として録音機の所に駆けつけると、なんと機材全て、潮水に浸かってしまっていたではないか。何ということか…。
満潮は30分も前に終わり、波の跡がない5メートルも上に機材を置いたのに、マイクロフォン4本、機材一台がびしょ濡れ。
「俺は何をしに来たのか」
民宿に帰って、マイクロフォンと機材を慎重に水分をとる。真水ですすぎ、機材を乾かし。。。しかし機材の回復の見込みは薄い。
おまけに民宿の食事は拷問だった。どうしたらこんな不味い料理が作れるのか、と感心しながら合計朝晩6食詰め込んだ。(10キロ四方お店がない)
まあ、ついてない。
ただ軽自動車無料、オヤジは親切で一泊3,700円では文句は言えない。「何、ガソリンまで入れといてくれたんか」と感謝される始末だったので、それは良しとするか、と徳之島を後に奄美大島へ。
奄美大島の民宿でも機材をアノ手コノ手で回復を願いながら精査したが、結局マイクロフォンは4本とも使い物にならず、機材1台はスイッチも入らず。
マイクロフォンは予備の一セットが残っただけでも幸運と思わないといけないと気持ちを変えて、再び録音に挑むことにした。
前回の奄美大島では、無風の絶好の満潮時に高校生の遠足の一団とぶつかり、浜で大騒ぎ。マイクロフォンケーブルまで引きずられた苦い思い出がある海岸に行ってみた。
今回は夕方の中潮の満潮だったが、風が強い、海から陸へと強風が吹いている。条件はずっと悪い。
海岸の中央、眼前に30メートルほどそびえ立つ島がある。この島の横腹に波が削った洞窟があるのだろう。そこへ波が出入りする度に「ボッ、ドドーン」と凄まじい重低音と共に海水を空高く吹き上げる。以前からこの音を録りたかったのだが、今回は中潮の上にその吹き上がった潮がマイクロフォンに向かってくる。最後の1本のマイクロフォンをダメにしてたまるかとアレコレ工夫して40分間何とか録音。
さらに、その洞窟に面した海岸に登れそうな岩場があり、さらにその付近からもドドーンと音がしている。真下は激流なので、恐る恐る空身で登ってみた。
‘迫力がある’次の録音地点に決め、こんどは機材を背負って慎重に登った。日が暮れると共に波もうねって来て10メートルもある岩場の私の所まで波しぶきが容赦なくかかってくるが、ひたすら我慢と録音機の保護。日も落ち、足場が見えなくなりそうなので慎重に慎重にと自らに言い聞かせながら降りた。
少し期待がもてそうな録音だった。
(この録音はスピーカーの初期化用のピンクノイズ代わりに使用するために《奄美大島の荒波》と題してCDを制作)
その晩は、前回の奄美の録音旅行時、3日間腹をやられ、追突され、フェリーに乗り遅れ、しかたなく泊まったあの民宿に宿をとった。
到着するなり、おばさんは「ああー!アンタ。お腹の具合が悪いって去年きたお客さんだね。」と…。もう仲良しのおばさんになっていた。
実はあの時仕方なく泊まったこの海岸こそ、素晴らしい録音が録れた海岸だった。再び海岸に仕掛けて徳之島の波の返り討ちに合わないように敵討ち。
翌日は空港近くの泊まり馴れた民宿へ移動。
奄美大島では天気が回復してきた事もあり、凡そ目的の録音に目処がついた所で、これまで録ったことがない、空港に近い静かな海岸で録音をすることにした。
気持ち良い海岸を歩いていると、波打ち際ある3畳くらいの大きな岩がある。そこをぬうように、リーフを乗り越えた波が静かに寄せては砂を舐める。晴天、無風、のどかな静かな海の音だ。
これを録音しようと、12月半ばの海岸を半袖で日光浴をしながら録音機を眺めていた。
時間が経つにつれ、潮がだんだん満ちて波が岩を迂回するようになってきた。左から来る波が右側へ、右からの波が左側へ岩を超えて流れて行く。絶好の音になってきた。良い録音が録れそうだと、気持ち良く景色をみながらボーッと時を過ごしている時だった。
突然「ビシャビシャ、ピシャピシャ」と異様な音がした。
‘何事!’と目をやると、何と、その岩を回り込んだ海水の道に数十、数百という小魚が凄まじい勢いで渡っている。「こんなことがあるものか…!」と仰天して見ていた次の瞬間、海水が引いたもので、魚が50匹ほどが取り残され砂の上でピチピチ跳ねている。
「スゲー!」と思った瞬間「可愛そうに、海に戻してあげなければ」。。。
何匹もピチピチ跳ねながら海に戻っているが、中央の魚は飛び跳ねているだけ。
次の瞬間「そうだ今晩のおかず」、と思い直し、海に戻ろうとしていた魚も手づかみに砂の上部へと掴んでは投げ、掴んでは投げ、合計30〜35匹を捕まえた。
それを仲良くなった民宿の板前の所へ持って行くと板前は、「そんな話し聞いたことがないよ」と驚いていた。
「こういう姿のいい魚は大概食えると思うけど、一匹だけ食わしてくれ」「夕食の時もし俺が居なければ食えないと思ってくれ」と…。
夕方の録音から帰ってみると、5匹もの天ぷらが出ていた。板前は「この魚の名前がわかったよ」「小骨が多いけど結構うまい魚だよ」。
5匹も食べるのはきつかったが、折角の料理なので全部食べてしまった。天ぷらの写真は携帯で撮ったが、ボケているし、浜の光景は写真を撮るのをすっかり忘れていたほど夢中だった。残念なことをしてしまった。
またまた珍しい経験と被害甚大なお話でしたが、まだその被害とショックは回復してない。